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逗子に暮らす作家がおすすめするアラフィフ生活

アガサクリスティー『春にして君を離れ』を読んで、家族のあり方について考えてみました

 

「もし僕が無人島に持っていくなら、この一冊ですよ」

 

と、友人が教えてくれたのが、アガサクリスティーの『春にして君を離れ』でした。

 

 

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アガサクリスティーのミステリー小説は有名ですが、この小説は、彼女が当時、別のペンネームで書いていたものなのです。しかも殺人事件のない小説なのです。

 

本のタイトルに目を奪われました。春にして君を離れ…

一瞬、高校時代、春なのに別れてしまった彼を思い出しました。

春な〜のに〜お別〜れです〜か〜♬を、歌っては泣いていたものです。

 

ところが、この本は、そんな軽々しい単純な恋愛小説、ではなかったのです。


これから読むご予定の方は、
以下、ネタバレしますので、
ここまででね。

 

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主人公は、良妻賢母を貫いてきた、と悦に入っている主婦ジョーン。

夫ロドニーとは恋愛結婚で、彼は弁護士。彼の仕事の成功も、我が身の内助の功に負っていないともいえない。平和な結婚生活だったと、人生を振り返り、うっとりするジョーン。

一人旅の途中で、偶然、女学校時代の友人と出くわします。彼女ブランチは当時、家柄も、美貌も、何もかも揃っていて皆の人気者だったのです。

それが、今では、見るも無残な様子。

ジョーンは自分の顔に皺一つなく、ファッショナブルで幸せな妻であることに満足し、友人ブランチの哀れな姿に、だらしない服装、下品な言葉遣い、次から次に愚かな男性と…もったいないこと!!と、心の中でかつての友人を、見下しているのです。

一方、ブランチは会話の中で、昔と変わらないジョーンのことを

「冷凍庫にでも入っていたの?」
「昔からお堅い一方だったものね」
「いつもコチコチの堅物だったからねえ」
「かしこに生まれ、育ち、嫁ぎ、しかしてまたかしこに葬らるか」

と会話の中で直球を投げます。

 

ジョーンは、ブランチのことを、いかがわしいジプシー婆さんになったものだ、と思いながら、

「そんなに(わたし)嘆かわしい運命かしら」
「いつだって狭い見方をしないよう心がけてきたつもりよ」
夫婦関係についても
「ロドニーもわたしもお互い満足しきっていますもの」

しまいには
「わたし、ただーお気の毒だと思って」
とつぶやくと、

ブランチは
「あたしのこと?ご親切さま。でもね、同情はご無用だっていいたいわね。これでなかなか楽しい思いもしてきたんだから」

と面白そうに続けます。

 

同じ女学校を出て数十年経った二人の会話が、全くかみ合わないことが、数ページ読めばすぐに伝わります。それでも、アイロニーやらフォローを連発しながら、その場をなんとか和やかにやり過ごす二人。

 

ブランチから
「あなたってあいかわらずね、ごりっぱよ。…(わたしなんて)心も体もすさみはてーそう考えていたんでしょう?まあね、世の中にはもっと悪いことだってあるんだからね」

と言われたジョーンは、これ以上悪いことなんてあるんだろうか、ブランチの堕落ぶりこそ、まさに第一級の悲劇だ、そう思っているのです。

ブランチいわく、現在の夫は、伝記を書きたがっているので、近く退社して専念すると言っているそうで、でも彼って文章を書くのが苦手なのよ〜、とお気楽。

そんな妻ブランチの態度が、ジョーンには信じられないのです。その夫に才能なんてないのだから、ちゃんと仕事を続けさせなきゃ!それが妻の務め!
もっと妻としてビシッと言わなきゃ!!

ブランチは目を丸くして、だってかわいそうじゃない、あんなに書きたがっているのだもの、と、夫の喜びに寄り添い歩む女性なのです。

ジョーンが、妻というものは、時には夫の二人分の分別を働かせる必要がある、と告げると、ブランチは笑って、あたしなんか、一人前の分別もない、と返す場面。

 

分別とはなにか…。

 

 

ジョーンは三人の子供を産み育て、今は三人とも家庭を持ち、幸せにしていると自負し、それも自分が母親として、完璧であったから、と少しも疑っていません。

乳母も家庭教師も、学校の選択にも苦心し、行儀の良い子供たちに育ったのは、わたしの努力があってこそ。家事も滞ることなく、メイドもしつけ、社会のボランティアにも勤しみ、来客をもてなし、ブランチとは大違いの幸せだと思っているのです。

 

しかし、人生の幸せとはなんでしょうか。人間に完璧な人生などあり得るでしょうか。人生において、分別とは、堕落とは、最悪なこと、とはなんでしょうか。

 

この小説は、このあとジョーンが旅の途中で、荒天のために足止めをくらい、砂漠の中の宿で数日間、軟禁かのように、ひとりぼっちで時間を過ごさねばならない日々の心情を描きます。

家事に、夫の世話に、社会貢献に、子供達の世話に忙しかったジョーンが、初めて一人の時間を過ごすのです。

おそらく、この場面を、本当の意味で理解出来る人は、たった一人で長い時間を、苦悩と共に過ごしたことのある方でしょう。

日頃、思ったことも感じたことも、思い出したこともなかったことが、次々と脳裏をよぎり始めるのです。あの時、あの人はあんな事をいったわ。あんな眼差しでわたしを見たわね。あの時の雰囲気はなんだったのかしら。

一人きりにならなければ気づかなかったジョーンの、心に脳に、様々なシーンがよみがえるのです。

一人旅に出る(といっても娘家族の見舞いに行くのです)時、船が出航した途端、踵を返すかのように背を向けて去っていった愛するロドニー。あれはなんだったの?
船が見えなくなるまで、見送ってくれるものと思っていたジョーン。

愛している夫、愛している子供達、なのに、自分はそれほど愛してもらえていないのではないか、と考えはじめるのです。

考えれば考えるほど、その証拠を突きつけられような言葉や場面が脳裏に浮かんでは、自分から消し去り…の繰り返し。砂漠の熱さで脳がおかしくなっているのではないか、と思うほどに、自分を振り返る時間が、自分を責める時間に変化していくのです。宿のインド人が奥様、大丈夫ですか?と彼女の日々の変調に気づくにも関わらず、ジョーンは、唯一の話し相手となりうるインド人に対しても、下僕として扱うのです。

この辺りの文章は、アガサクリスティーが、おそらく筆が止まらなかったような書きっぷりで、胸に迫り、当然、読み手も一気に読んでしまう場面です。

 

よくよく考えてみると、夫からの感謝も、子供達からの感謝も、上部だけ。むしろ子供達は夫への愛と信頼に満ちている。

どうして?苦心してきたのは母親のわたしであって、ロドニーは仕事ばかりじゃない。娘たちの妙な友人たちにどんなに悩まされ、引き離してきたか!結婚相手の品定めだってどれだけ苦労させられたか!でもあの時…わたしがぎゃーぎゃー言っても聞かなかったのに、ロドニーの言葉に、娘が考え直した…どうしてロドニーの話なら素直に聞くの???

そんな時、いつもロドニーは「かわいそうなリトル・ジョーン」と言って妻に優しくキスをするのです。

ロドニーには分かっているのです。妻ジョーンが、常に完璧な妻を、完璧な母親を、完璧な人生を追い求めてきたことを。そして完璧完璧と願うゆえに、自分では全く気づかない、これ以上ない不完全な不完璧な女性であることを。

自分の概念と道徳と感覚で作った完璧な枠組み。それに当てはまらない人は、惜しいわね、悲惨ね、残念な人ね、となってしまう習性。そんな枠組みに、はまらなければならなかった子供達、そして夫。その枠組みは決して悪くはなく、ジョーンの枠組みの中で生きていったら、小さな世界で、小さな気持ちで、小さな平凡な、誰もがノープロブレムと思うお砂場遊びのような幸せを掴むのでしょう。

でも所詮、枠の中ですから、それ以外の自由はありません。広い世界、遊園地のジェットコースターのような、どん底も、頂点も決して見られない。つまらない人生なのかもしれません。

 

古き日本語にも、十人十色とあるように、人はそれぞれ。

子供は親を選んで生まれてきたわけではありません。その逆も真なり。

 

親の中には、自分の夢や、希望、あるいはコンプレックスを枠組みにして、子供を育てる人も少なくないでしょう。全ては子供の幸せと思い込むことでしょう。でも子供はまた別人格。夢も希望も、コンプレックスも親とは違うのです。それを押し付けられたら、子供の心はどうなるのでしょう。ましてや夫は赤の他人。どんなに好き合っていても、どちらかが、どちらかの枠組みにはめようとしたら、多少なりとも窮屈になるのではないかしら。

 

 

春にして君を離れ

このタイトル。
英語のタイトルは
『Absent in the Spring 』でした。
Absent とは不在の意です。

春の不在…
春からの不在…

妻が旅行で不在のことを意味しているのか、そのようなタイトルをつけるアガサクリスティーではないような気がしますが、その真意はご自由にご想像を^ ^

 

夫ロドニーには、そっと心を寄せている人がいたのです。それは近所のごく普通の、美人でもなく、若くもなく、ゆがんだ顔だが、笑顔に魅力のある主婦、と描写されている女性です。

彼女は、ロドニーの夢だった農場仕事をしていて、会うと、牛乳の話や家畜の話でロドニーと盛り上がっていた。夫があんな人を好きなはずがない、とジョーンは頭から否定していたはずなのに、末期ガンで彼女が亡くなった時、大理石の墓石を見下ろして、ロドニーは嘆くのです。

「こんな冷たい石の下に眠っている…なんて、想像もできないね」

その時、ロドニーの胸ポケットから、シャクナゲの蕾がぽとりと落ちるのです。ロドニーはつぶやくのです。

「血の雫だよ。心臓から滴り落ちた血の雫だ」

それからしばし、ロドニーは神経衰弱になるのです。

シャクナゲの季節、春から不在になったのは、愛するレスリーだったのです。

明るく、自由で、世間の目を全く気にせず、虚栄心もなく、常に自然体だったレスリー

春にしてレスリーを離れ。

 

灼熱の砂漠でその光景を思い出し、ジョーンは凍りつきます。

弁護士の仕事は嫌いだ、農園を経営したいんだ、と夫のホンネを聞かされた時、ジョーンはどれだけの踏ん張りで自分の枠に彼をはめ込んだか。それが最善と思い込むことによって、どれだけ弁護士を続けるよう説得したかを思い出すのです。

ジョーンという人は、身近な家族、夫、子供のことを知り尽くしていると思っていました。しかし、家族から知り尽くされているのは自分の方で、自分は何も知ってはいなかったのです。いえ、知ろうともしなかった、というのが本当のところです。

 

まだまだ書きたいことが山ほどありますが、完全完璧理想を求める人のそばにいるのは、時としてつらくなりますね。むしろ、ダメダメ人間だと自称している人のそばにいると、不思議にホッとしたりして。

 

平成から令和になり、相変わらず家族内の凄惨な事件を見聞きします。子供の引きこもり、大人の引きこもりも増加しています。教育虐待の問題も明らかになってきました。

 

自分の思い込みだけで、理想の枠組みに子供をはめ込んでいないでしょうか。

高齢の親の世話はこうあるべき、と自分を追い詰め、理想の枠にはめて苦しんでいないでしょうか。

自分を、自分の作った枠にはめて苦しんでいないでしょうか。

小さな枠のすぐ外には大きな自由があるのですよ。

 

冒頭の友人ブランチのように、率直に、直球でアドバイスしてくれる声が、沢山あればあるほど、耳を傾けるほど、ほんのすこしだけでも、キツイ枠組みからはみだせるかもしれませんね。そしてこの小説は、その枠について考えさせます。


後半に、ジョーンが列車の中で知り合う、上品なご婦人サーシャとの出会いがあります。

ジョーンに語る一言一言に含蓄があり、悟りさえ伺えます。ジョーンは心底、自分の身勝手さを反省し、夫に、子供たちに、謝ることを決意するのです。

しかし、自宅に戻った途端に、謝るどころか、形状記憶合金のごとく変わらぬ日常が始まるのです。

悲しいかな、自分を含め、人はなかなか変わらないということでしょうか。

それに引き換え、夫ロドニーの結婚生活という枠組みの中での妻への愛には、頭が下がります。

その愛とは、男女の愛エロスではななく、アガペー、自己犠牲の愛です。

相手を傷つけない、最高峰の愛です。

 

まだ一回しか読んでいませんが、再読したいと思う作品でした。

皆々さまにもご推奨したい一冊でした。

 

深夜に長々と書き連ねました。

悪しからず。

最後までお読みくださり、有難うございました(^ ^)